悲しいほどにアイドルの話
こんばんは。なんやかんや書きたい記事がどれもまとまらずにぜんっぜん更新できていないこのブログです。
そういえば無事に卒論は終わりました。二度とあんなにWordと向き合うことはないだろうなと思います。そうであってほしいです。
今回は、三宅健さんのソロ曲「悲しいほどにア・イ・ド・ル~ガラスの靴~」についての記事です。いやぁ、この記事が書きたくてたまらなかった。それくらいにこの曲について色々考えたいことがたくさんある。
色々なジャニーズのソロ曲を聴いてきたけど、悲しいほどにアイドルがたぶん一番好きです。YouTubeにあるセクバニコンではそこだけ何度も何度も聞いているくらいには好きです。
このタイトルと、一般像の三宅健を想像したらキラキラ可愛いアイドルソングなのかな?と思い込んでしまうけれど、決してアイドルらしいキラキラ衣装とは言い切れないシックでかっこいい衣装とダンスで踊る健ちゃんが本当に好きです。まぁ岡田担なんですけどね!!!!!!
以下、自分なりの感想もといクソみたいな無駄に長い考察ですが、よかったら見てってください。ちげーよ!こうなんだよ!という意見があったら聞いてみたいのでぜひコメントください。
はじまります。
まぁこの曲を初めて聞いたのは、このセクバニコンの映像です。初めて聞いた時の衝撃ったりゃありゃしない。
まだ私の中での健ちゃんのイメージが、一般像の三宅健でしかなかったから、この曲を聴いていきなり
誰しもが抱えるココロの闇 人知れず犯す過去の過ち
若気のいたり はめはずしたり もう子供じゃないんだからバカはしない!
思考と感情がぶつかり合い 自己抑制力が働かない
抑えきかない マジ笑えない そんな大人だけにはなりたくない!
という歌詞から始まるもんですから。
これを、ジャニーズアイドルが歌っていいんだ?そして歌える人がいるんだ??っていうのがこの曲の大きな感想。
ここの部分を聞いて思う事は、多分これはジャニーズならではの考えというか小さいころから芸能界の最先端に立ち続けた人の考えだなという感情。
事務所入りした14歳から、きっと色んな大人を見てきたんだろうな。決していい人ばかりではないその世界で、「こんな大人だけにはなりたくない」と思ってしまう人をたくさん見てきたんだろうなぁ。
Let's dance tonight Ah feel all right
悲しいほどに ア・イ・ド・ル!!
Wouldn't be myself 虚像とリアル
その狭間で俺 生きていく
健ちゃんが言っていた「テレビに出ている人なんてみんな虚像なんだから」という言葉。これを言ってしまうアイドルがいることに衝撃を受けた覚えがある。
たしかに、元々アイドルという言葉は偶像って意味だし、生まれた時からアイドルの人なんていない。あくまでも、職業がアイドルってだけで、仕事としてアイドルをやっているのは重々承知でも、この言葉をさらっと言えてしまうアイドルはなかなかいないと思う。
ある意味、プロ意識がめちゃくちゃ高いアイドルにしか言えない言葉だと思う。まさに健ちゃん。
Wouldn't be myself = 決して自分ではない
あくまで、私たちが見て好きになって応援している三宅健はアイドル V6の三宅健であり、三宅健自身じゃないかもねって、こんなこと歌えるアイドル………ほんとにすごい人だし、その両極端な二つの間に生きていくことを決めた健ちゃん、本当にありがとうという気持ち。
cruel worldって残酷な世界っていう意味なんですね。こんな記事書こうとしてるのに初めて知ったアホです。
残酷な世界、そうねぇ。後輩の後ろで踊る人もいれば、デビューできるなんて確約がないままに活動し続ける人がたくさんいるその世界で、健ちゃんはアイドルとして生きてきたんだな。
どこまでが現実で fantasy, これ?それ?あれ?どれ?マジ分かんない
テレビの中のme 生身のme もはや超fazzyでno boundary
気の利いたポーズ 軽快なトーク 誰でもつとまるわけじゃない
so I'm 筋金入りエンターテイナー ah ha そことことん極めるだけ
fazzy=あいまいな(スラング)no boundary=境界のない
自分がテレビに出て、トークしたり歌ったりしている姿を見る気持ちってどんな気持ちなんだろうか。おそらく一生体験することのないことだけど、気持ちが追いつく気がしないな。
違うアイドルの話ですが、コンサートとかで歓声を浴びた後に自分の家の風呂掃除とか洗濯してるとなんか寂しくなると言っていました。
テレビとかに映る、自分だけれど自分とはまた違う自分を見る気分って、どうなんだろうか。なんか、本当の自分がわからなくなりそうですっごい疲れそうだな、という感想しか出てこない。
個々の部分の、気の利いたポーズ~誰でもつとまるわけじゃないってところはアイドルでいることを誇ってくれているような気がして、この曲だと割とアイドルとしての救いの部分のような感じがする。
俺も君と同じように笑い 悩み 時には人知れず涙流し
また Lights Camera Action! Can't stop Won't stop
悲しいほどにアイドル
悩み、辛いことがあってもカメラは止まらない、止めることはできない それがアイドルってのをしみじみと感じる。
にしてもVさんは満身創痍でもコンサート出たり、舞台出たり、テレビ出たりするから昔からのファンの人はハラハラだっただろうな…と感じることが多々ある。
Let's dance tonight Ah feel all righit
これだからやめられないのが ア・イ・ド・ル
Wouldn't be myself 2次元の世界で
はしゃぎ回って 今日も生きている
ここの、はしゃぎ回って今日も生きているって部分がものすごく健ちゃんっぽくて好きなんですよね。くしゃくしゃ笑顔でニコニコしてる、皆の大好きな健ちゃんがイメージできるので。
とはいっても、はしゃぎ回って楽しそうな健ちゃんはあくまで三宅健自身じゃなくて、2次元の世界にいる三宅健というのを繰り返してて、この曲を初めて聞いた時の三宅担が心配になってきますね
本当は君と 何ら変わらない普通の少年で男の子
恋の一つや二つ officialな関係 それさえも許されないの?
華やかなこの世界で 愛や夢と希望を振りまいて
演じている自分も決して嘘じゃない
そして最後のここの歌詞。個人的に一番ぐっときて、切なくなって、健ちゃんが大好きになる歌詞。
ジャニーズアイドルって、かなり特殊なんですよね。
女性アイドルとか他の男性アイドルは比較的「アイドルになりたい!」という強い意志をもって、レッスンして、活躍を狙うってイメージなんですけれど、
ジャニーズは自分から履歴書を送ったって人がまぁ少なくて、V6も自分から送ったのは坂本くんと井ノ原くんだけ。(しかも坂本くんは学校をやめるために芸能界に入りたかったので、アイドルである必要はなかった)
周りの勧めで送った、いつの間にか送られてた人が多いイメージのジャニーズ。
なので、「アイドルになりたい!」って事務所入りした人が非常に少ないのに芸能界でも最大手のアイドル事務所という、極めて異端な事務所なんですよ。
だからこそ、「普通の男の子」だったのに職業としてアイドルを選んだばっかりに大っぴらに恋愛をすることが難しくなった。
officialな関係っていうのは、恋人である関係を公にすることもしくは結婚を指すのかなぁと思う...
個人的には好きに恋愛をしてくれ!と思っているけれど、確かにアイドルという職業で、異性がファン層のメインであるアイドルならば節度をもって恋愛してほしいという思いも、無いって言ったらウソになる。
プロであり、女性をメインにファンにして活動しているならば、女性の影は見せないほうが絶対に良いというのが、おそらくアイドルへの「世間の目」だ。
けれど、素敵な人たちが好きに恋愛できないのもな…という押し問答になるので…難しいね…
全体を通して、「アイドルは虚像」「二次元の世界で写る自分は自分じゃない」ということを歌ってきたこの歌だけども、
最後にちゃんと「演じている自分も決して嘘じゃない」という言葉を伝えてくれるのも、健ちゃんらしいなぁと思う。
アイドルは仕事であり、プロだからアイドルをやっているっていうのはわかっていても、本人たちが割り切りすぎているとファンは、何を応援していいのかわからなくなる。だからこそ、この一文にたくさんの人が救われるだろうなぁ。
確かに、V6でアイドルの三宅健しか私たちは知らないけれど、そのアイドルでいる彼も「嘘じゃない」なら、私たちは三宅健自身のことを知れていて、見届けられているんだもの。
夜が明けるまでにはもう少し時間があるから
それまでに間に合うようにこのガラスの靴を持って走る
この歌詞のサブタイトルである「ガラスの靴」はここ最後の一節にしか出てこない。
ガラスの靴って言ったらもちろんイメージするのはシンデレラですね。
シンデレラは「夜の12時になったら魔法が解ける」という魔法をかけられていたというのが大事な設定だけども、歌詞の「ガラスの靴を持って走る」とはなんぞや???ってなりました。
あさーい自分なりの考えですけど、ガラスの靴って本当だったら王子が見つけて、ガラスの靴を履ける女性を探すってのがセオリーじゃないですか
だから、ガラスの靴は置いていかれなきゃ話が進まないんですよ
だけど、夜が明ける前にガラスの靴を持って走ってるこの歌詞は、
シンデレラが、自分の正体が普通の貧しい女子っていうのを王子に知られたくない=アイドルでいる自分が普通の男の子というのを知られたくない、魔法がかかったアイドルの姿だけを見ていてほしい
っていうくそ浅い考えに至りました。
セクバニコンだと、最初の演出で健ちゃんが持っていたガラスの靴は本人によって隠されているけれど、曲の最後にはまた表に出ているんですね。
だから、ガラスの靴が、アイドル・三宅健じゃなくて本当の三宅健自身を指すなら、曲を歌う前は「アイドルでいる三宅健」を見てほしいから靴を隠すんだろうけれど、曲の最後には「本当の三宅健」を見てほしいというメッセージがあってもいいのかなという、わけわからん自己中解釈です。
まとまらないし、わけわからんし、無駄に長い考察が出来ました。
何が言いたいかというと、これをデビュー15周年の年のアルバムで歌う三宅健は本当に悲しいほどにアイドルだし、これは他の誰にも歌えない歌なんだとしみじみ感じます。
現在、41歳でも誰よりもアイドルな彼。
アイドルを虚像と言うことで、テレビに映る自分も虚像だと公言している彼だけれど、本当のプロのアイドルだからこそ、ファンから愛され、多くの後輩から尊敬される彼なのだと思います。